孤独の女

母がうるさい。
実家に帰る前からわかっていたことだけれど、わたしは母とは決定的にそりが合わない。
わたしは現代っ子らしく科学的でないことって嫌いなんです。
わたしは今、母の部屋を使っていて、母の部屋にコタツを置いてその上にパソコンを設置し仕事をしています。
タツ布団はコタツの中に入れてはいけない、それは常識だと思うんです。火災の原因になるから。
でも母は「コタツ布団を中へ入れろ」と言う。「横を通るときに足に引っかかるでしょ!」
母は今まで何度もコタツ布団を焦がしたことがあります。
わたしは火災のことを心配して何度も忠告しましたが母は聞く耳もたない人です。

タツ布団のことはほんの一例で、類似することが他にも山ほどあります。
わたしは科学的でないことに価値を感じない。
家が燃えたら身内の問題ではなく、隣近所に迷惑をかけることになる。だから絶対避けなければならないと思っている。
でも母はそうではない。目先のことしかわからない人です。
別れた夫もそうだった。わたしが何度「外出するときは鍵を閉めて行ってね。強盗が入るから」と言っても鍵をかけ忘れた。
夫は自分さえ良ければいいと考える人だったから。
けれど、目先のことしかわからない人に何を言っても無駄です。
そういった人でなくても他者に何を言っても無駄です。
誰の価値観も変えられない。

でも、ここはわたしの家ではないから、やっぱり家を買って出て行かないと駄目ですね。
科学的でないおばあちゃん、おじいちゃんを見て育つ子どもが可哀想だ。子どもも科学的でない子になってしまう。
そのことを昨日、パパ(お腹の子の父親)に言うとこんな答えが返ってきた。
「家を買うためにどこかに再就職しようかと考えている」
そうね、それも一理あるかもしれないね。
やっぱり自分の家をもたないと子育てに関していろいろ揉め事が起こってくると思う。
子どもには英語が話せるようにしてあげないといけない。それが親としての務めだと思っている。
そのためにも親子がいっしょに住まないと駄目なんだ。

昨日は「びっくりドンキー」でパパと遅くまで話し込んで幸福な時間を過ごしたけれど、
わたしは孤独だった。
わたしの孤独癖は昔からで病気みたいなものだ。
自分でも何が孤独なのかわからない。パパは、こんなにもわたしが安心できるように気をもんでくれているというのに。
お腹の子どもはすくすく育っているし、仕事だって売上が減っているとはいえ、まあまあの成績を出している。
けれど以前なら孤独を感じたらお酒を飲むか安定剤を飲めば良かった。落ち込めば『誰かわたしを殺してくれたらいいのに』と
自己憐憫に浸ることができた。
でも今は、わたしは母親だからそんな甘えは許されない。
それが大人になるってことでしょうが、甘えが許されないって孤独なことだったんですね。
わたしにはもうパパとお腹の子どもしかいません。それ以外の人間には仮面をつけたわたししか見せてはいけないのです。
パパとお腹の子どもがいるだけでも幸福ではないか。それはお前が長い間待ち望んでいたものではないか。
そうです。わたしはそれが欲しかったのです。
本音で話せる家族、家庭が欲しかった。
でも、でも、この上なく孤独なんです。病気かもしれないけれど、孤独なんです。

勝ち犬と負け犬

酒井順子著の『負け犬の遠吠え』という本が話題になっているそうですね。
三十歳以上の未婚子なしの女性は負け犬で、反対に既婚子ありの女性が勝ち犬だそうですね。
そして勝ち犬の女性と負け犬の女性は最初から違う人種ということで、
勝ち犬の女性は歳の近い独身の男性に誘われたときにだけついていく女性ということです。

わたしは三十代でいちおう出産予定ではありますが、シングルマザーですし先の結婚も
歳の離れた人との結婚でしたので、負け犬の部類に入ると思います。
べつに精一杯生きてきたので負け犬でもいいのですが、勝ち犬の女性と負け犬の女性は最初から違う人種というのは
すごく理解でする。
勝ち犬の女性と負け犬の女性それぞれと会話していると肌合いが違うというか、雰囲気みたいなものの違いが
はっきり伝わってくる。
それは大卒と高卒の違いほどにはっきりしたものがある。
わたしは偏見の多い人間で、これもわたしの偏見かもしれませんが、
勝ち犬の女性というのはやはり処世術に長けているというか賢いというか、中庸の精神というものを
心得ている人が多いように感じます。
反対に負け犬の女性というのは純粋な人が多いです。
考え方が性善説の人が多く、人間的に面白い人が多いです。

わたしは個人的には、本人が納得していれば勝ち犬でも負け犬でもいいと思うけれど、
納得もしていないのにまた努力もしていないのに負け犬だと悲劇のヒロインぶっている女性を見るとイライラする。
若かりし頃、わたしが結婚したときにわたしの親戚のある女性は言いました。
「ららちゃんはいいね。結婚できて」
はっきり言って、親子ほど歳の離れた男性と結婚するくらいは誰でもできます。
しようと思えば誰でもできます。
わたしは自分が羨ましがられていることが不思議でならなかった。
その女性が結婚願望がありながらいつまで経っても結婚しようとしないのは、
相手が見つからないのではなく、単に結婚による煩わしさを引き受ける勇気がないだけなのです。
引き受ける勇気がないのに幸福なんて掴めないよ。
勇気はないけど幸福をくださいなんて、そんな都合のいいことを神様が認めるはずがないよ。

今回、わたしが妊娠したことに関しても「ららちゃんはいいね。妊娠して。
私なんて不妊治療に失敗してさ…」と言ってきた方がいました。
その方が長い間、不妊治療をしていたことは知っているし、
その人にしかわからない心労の大きさはいかばかりだったかと推察します。
その方は、わたしなんか比べものにならないくらいにいい大学を出た女性です。

でも、その方のやられていた不妊治療というのは卵管を拡げる治療で、
いつまで経っても受胎しなかったというのも交際している一人の特定の男性に対して受胎しなかったというだけなのです。
遺伝子同士の相性が悪いといくら受精しても細胞分割は起こらないのは事実で、
他の男性と試みたら妊娠したのかもしれないのです。
でも彼女は彼との子どもを断念せざるを得なかった段階で「私は不妊症だ」と絶望し、
人生を消極的なものにした。疲れきって彼とも別れてしまった。

ひとりの男性とうまくいかなかったら次を探せばいいというのは、わたしの価値観です。
それを周りに押し付けるつもりはありません。
でも中途半端な努力で投げ出してヒロインぶっている人を見るとイライラする。
生きる死ぬまで自分を追い込んで踏ん張ってみろよ。
踏ん張りもしないで幸福が天から降ってくると思うなよ。
なんかわたし、書いていてすごくイライラしている。
他人は他人なのにね。自分がちゃんとしていればそれでいいはずなのに。
ここに書いていることは当然面と向かって言えることではありません。
だからイライラするのかな…

しつこさの光と影

しつこいって悪いことばかりじゃないと思う。
パパ(お腹の子の父親)は、わたしがいつか立ち直れることを信じて三年間辛抱強く、支え励ましてくれた。
それに費やしたお金と労力はすごいもので、電話代だけで二百万を超えた。
はたから見たら「お前、馬鹿だよ」「実際に逢ったこともない女相手に何やっているの?」と言われるところだが、
パパは自分の信じたものを疑わなかった。
誠実な人だから粘り強くもなれた。
彼のおかげでわたしは立ち直り、仕事を自営業にまでもっていくことができた。

別れた夫は、違う意味でしつこい人だった。
あらゆることに関して自分の思い通りにならないと気がすまない人だった。
この世は自分中心に回っていると解釈する人で、そのためなら他人を突き落としてもいいと考える人だった。
今さらこんなことを書くのは間違っていますが、
わたしは夫にレイプされて出血したときもあります。
わたしが一度も不倫を考えたことがない時期に夫はわたしにしつこく「間男しているだろ?」と
言い続け、わたしが否定しても否定しても毎日それが続きました。
わたしはとうとうノイローゼ状態がピークまでさしかかり、朦朧とする頭でこんなことを思いました。
不倫して離婚するのもいいかもしれない、こんな地獄から抜け出せるんだったら、と。
わたしは地獄に踏みとどまるだけの価値がわからなくなったのです。
自分の命を落としてでも踏みとどまらなければならない生活なの?そこまでして継続しなければならない相手なの?
そして心は不倫という方向に向かっていった。

この間日記に書いた人ですが、クライアントの一人でしつこく「ホテルに行こう」と
言ってくる人がいます。わたしが何度断っても断っても。
思わせぶり営業をやっているからそう思う人がいても仕方がないとわかっているし、
それだけわたしが安っぽい女だと思われているということでしょうが、
昨日、あまりにしつこいから「自分のスキルに自信がない。荷が重いから契約解除してください」と
辞退しました。これでもうその人は言って来ないと思います。
その人には七回くらい「刑法に触れますから」と言ってお断りしています。
それでも「ホテルに行こう」と言ってくるから、もうお金はいいわ、とにかく顔も見たくないという気分になりました。
もうたくさんですという。

断る理由に法律問題をもってきて説明してもその人から返ってくる言葉は「ホテルへ行こう」だった。
あまりに日本語が通じない不可解さに、しつこい人って幸せな家庭で育っているからなのかな?と
いう疑念を抱いたわたしです。
幸せな家庭で育っているから自分の思い通りにならないと気がすまないんだ。
別れた夫もそうだった。
でも、わたしが誰々さん幸せな家庭で育っているからだと解釈するときはいつも
自分の理解不能な事柄だから、自分を納得させるために無理やりに当てはめる理由がこの「幸せな家庭で育っている」だった。
それである気のいい常連のクライアントにその人のことを話すと、
こんなことを言われた。
「そういうヤツは、しつこくすることでどうにかなってきたんだと思うよ。
しつこく言って願いが聞き入れられたことがあるからだと思うよ」
そうか…

わたしの感覚では、しつこく言って聞き入れられたとしてもうれしくない。
その人が心からその選択をしてくれないとうれしくない。
だから去る者を追ってはいけないんだ。
でも、これは価値観の違いだ。その人にとっては、しつこくすることにも意味があるんだ。
けれど、わたしは相手を苦しめるしつこさだけは持ち得たくないと思った。
自分のエゴのために好きな人を苦しめたら、人間として終わりになってしまうから。
好きな人を苦しめるくらいなら自分が苦しんだほうがいい。
仕事でいくらでも苦しみはある。プライベートでは苦しみたくないよね。

離婚暦のある男はすべて死すべし/田舎娘の大誤算

また過ぎ去ったことを思い出すのは、わたしが単に情緒不安定の病気だからというだけでしょうが、
別れた夫は真剣に『女房に一千万ネコババされた』と疑っていた。
わたしは当然誰のお金もネコババしたことはありませんが、
信用できないならさっさと離婚すればよかったのに。
また離婚以外には解決しようのない問題なのに離婚しようとしなかった夫の性格が不思議でならない。
信用できないなら離婚するか、離婚しないなら信用するか、そのどちらかにしてほしかった。
それができる人間なら、女房に見限られることもなかったわけですが。
人間としての最低限度の良識のある人間なら離婚されることはありえない、と断言できる。
世の中の離婚暦のある男はみんな最低な下種野郎なのです。
そんな道理に暗い下種は生きていても社会に害を及ぼすだけだから、自然死すべきなのです。

今はフリーターになる女性が多いそうですね。
彼女たちの多くは結婚すれば男性の収入で家計が支えられることを希望し、
働いても家計を補助する程度と考えているそうです。
わたしもそうでしたよ。
キャリアウーマンとは程遠い人種だという自覚があったので、
結婚して派遣社員をやりながら経済的に楽な生活をしたいと考えていた。
今のわたしの感覚からいくと『なんて甘ちゃんなの?そんなにうまくいくと思っているの?
男がそんな都合のいい生き物だと思っているの?』ですが、
わたしはそのとき二十代の世間知らずの田舎娘で、何もわからなかったのです。
歳の離れた収入の多い物静かな長男でない人と結婚すればうまくいくと思っていた。何もかもうまくいくと思っていた。

それが大誤算だった…。
確かに夫は収入は多かったけれど浪費家だった。旅行や外出の好きな派手な人だった。
外車を乗り回したり落ち着いた生活というのができない人だった。
わたしは結婚してからずっと働いていたけれど、贅沢なんて全然できなかったし生活は楽ではなかった。
自分の服一枚買うのも清水の舞台から飛び降りる覚悟でという感じだった。
結婚生活がどれだけ悲惨なものだったかは今まで書いてきたとおりです。
結論として、他人なんて思い通りにはならないものです。
他人は裏切る。ゆえに『結婚は逃げ道にはならない』

いつ裏切られてもいいように自分の仕事だけはちゃんとやっておけっていうのが正論のようです。
結婚の前に自分の仕事を見つめなおして、仕事を確立させてから結婚したほうがいいです。
結婚を逃げ道に選んだらひどい目に遭うよ。
この世の地獄を見たい人は、それもいいと思うけれど。
神経科通いをして生きる死ぬの境界をさまよいたい人は、どうか結婚を逃げに使ってください。

子どもへの虐待の真実

子どもに食事を与えず暴力と恫喝で餓死寸前にまで追い込んだ親が逮捕された。
わたしは我が子を虐待して逮捕される親を報道で知るたびに、怒りというよりも
その人物の奥深くに潜むトラウマと鈍感さを感じる。
わたし自身、虐待されて育った人間です。
いくら個人の日記とはいえ、あまりに個人的すぎる微妙な問題なので、
どこまで書いていいのかわかりません。
肉親を売るに値する行為が果たして許されるのだろうか。
わたしはそれが許されるくらいに立派な人間なのだろうか。
虐待されて育った人間は虐待の連鎖を繰り返すという。果たして自分は絶対虐待しないと言い切れるのだろうか。

台所にあるテレビが今回の事件を報道していた。
わたしが実家に帰省してから台所が母の部屋になっている。母は自分の部屋をわたしに明け渡したからだ。
わたしの仕事が在宅ワークなので。
わたしはテレビの前で洗濯物をたたんでいる母に言った。
「虐待する親は、自らも虐待されて育っているんだよ。虐待は連鎖していくんだ。親も被害者だ」
母は、はぁ〜という表情をして、
「そんなこと言い訳にならないよ。そんな人はいっぱいいるよ。犬や猫でも自分の子どもを育てるのに、
子どもに食事を与えないのは最大の虐待だ。親として最低だよ」

でも昔、母はわたしに食事を与えないことがあった。
「この家に肥満児はいない」と言って絶食させた期間があった。
そして事あるごとにわたしと長女を比べ、軽蔑嘲笑しストレス解消に利用していた。
そのことを母に言うと「嘘つき!そんなことした覚えはないよ」という答えが返ってきた。
「この家に肥満児はいないなんて言った覚えはない」
「長女と比較したことなんてないし、子ども同士を比較するなんて親として絶対にやってはいけないことだよ」とも言った。
母は、しらばっくれている風ではなかった。本心からそう言っていた。

それが虐待の真実だと思う。
虐待する人間は、自分が虐待しているなんて思っていないのです。
思っていたら虐待なんてできないし、またそういった行為をいつまでも覚えていられるような繊細な人なら
初めから虐待なんてしないのです。
母も虐待されて育った。
食事を与えられないという虐待は経験していないらしいが、母の両親は異常なまでに世間体を気にする人だった。
ちょっとでも人並み外れた状態は絶対に許されない家庭だった。
容姿・学力は普通以上でなければならず、病気・障害があっては人間であらず、
女は結婚するまでは絶対に純潔でなければならず、何歳までに結婚しなければならず、
男は絶対に働かなければならず、母は子どもの頃から「人並みでない人間は村八分にされるんだよ。
みんなに笑われて役立たずという烙印を押されるんだよ」と脅されて育った。

母も被害者だ。
そういった家庭で育った者にいまさら「これがモラルだ!こうすべきだ!」と言ってもしかたがない。
母はもう還暦を過ぎている。還暦を過ぎた人に過去を思い出させるのは酷というものです。
自分や母のことはもういいけれど、この家は近親相姦のある家庭。
わたしは、わたしの子どもにもその毒牙が及んだらどうしよう、とそれが気がかりだ。
お腹の子は女の子の確立が高いからよけいに心配です。
そういった意味でも親子三人早く暮らせるようになりたいのです。
虐待の連鎖を断ち切れるかどうかは、わたしの行動にかかっている。

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昨日日曜は、パパと「トルコ三大文明展」に行った。
日本がまだ縄文時代にも到達していない紀元前何千年も前にヒッタイトの人たちは高度な文明社会を築いていた。
文字も持っていた。法令もあった。信じられない世界がそこにはあった。
よくトルコ人の誇り高さを物語る言葉に「トルコにはトルコ人しかいない」というのがありますが、
そう思ってもしかたがない部分はありますよ。
世界四大文明に匹敵する文明をもっていた国なんですよ。

すごい人で身重のわたしは途中気分が悪くなったけれど、学芸員の方たちが親切で有難かった。
パパと休憩室で休んでいるとだいぶ気分がましになったので、
せめてビザンツ帝国まで観るだけは観るぞー、説明パネルは読まない!気分が悪くなるから!と
展示会場に戻る。
パネルを読んでいると満員電車の中で吊革につかまって単行本を読んでいるような気持ち悪さなんですよね。
それでパパがパネルを口頭で説明してくれた。
でも好奇心旺盛なららちゃんは、どうやってもパネルを読んでしまう…。ああ、何をやってるんだか。
また気分が悪くなって休憩室へ。

ふたたび展示会場に戻ってビザンツ帝国まで観ると欲が出てオスマン帝国の最後まで観てしまった。
でも最後まで観てよかったと思ったよ(*^-^*)
なぜトルコ人が東洋人に親近感をもっているのかがやっとわかった。
西欧文化との合流地点であるトルコはキリスト教文化の先進国であり、
西欧人と親和性を持っているのは当然だが、
モンゴル時代にはモンゴル文化を色濃く受け継ぎ、モンゴル及び中国文化が生活のすみずみまで浸透した。
あのイスラム大帝国オスマントルコというのは、そういう国だったんですね。
そういった歴史的事情があるからトルコ人というのは、東洋人に違和感を感じない。
来てよかった。
来なければそういった事情ってわからなかったと思うよ。
この目で見たから実感できた。
やっぱり百聞は一見にしかずなんですねぇ。

ああ、壮大な歴史絵巻を観ていると、現代人の矮小さが。ネットの無言のメッセージ、空自慢。
ああ…

当たり前のことができない人/トルコ三大文明展

週末はパパ(お腹の子の父親)と楽しく過ごせたのに、
また情緒不安定がぶり返しているようだ。ものすごくイライラする。
不安定になると他人の欠点が拡大鏡で覗くように丸見えになる。それでまたイライラする。
今朝、昔の知り合いから電話がかかってきた。
新しい会社で新しい営業に着手したそうです。
それはよかったね。それで?
わたしに絵を買えと言っていた。べつに命令はしていないけれど、暗にそうととれることを言っていた。
世界的に認められたアーティストの素晴らしい版画なんだって。
ああ、そう、それは買っても損はないよね。飾っているだけで心の滋養になるよね。
飾っているだけで部屋がぱーっと明るくなったようになるよね!

ああ、どうかしているわたし。ものすごくイライラしている…
人間自分が一番かわいいから、誰だって他人を利用するものだ。他人とはそういう存在だ。
でもね、他人に物を買ってもらいたいと思ったら普段からフォローを忘れては駄目なんだ。
フォローなんて特別なことをするわけじゃなくて、単なる営業のいろはを守っていればいいだけのこと。
時候の挨拶くらいはしておけってこと。
べつに営業でなくても人間として当たり前のことだと思うんですよ。
当たり前のことをせずして、どうして物を買ってもらえるの?
当たり前のことをしていたって買ってもらえないときがほとんどだ。買う義務なんてない。

甘い営業・商売をしている人間を見るとものすごくイライラする。
でも他人は他人。自分とは違う。イライラする必要はないのだ。
だいたい今の時代に挨拶をしないということに腹を立てるもんじゃないよ。
挨拶をしないことは間違ったことではあるけれど、でもこれだけしない人の割合が大きい社会では、
もうどうしようもないよ。
挨拶をするしないはその人の勝手だし、わたしがその人から物を買いたくないと思うのも勝手だ。
フィフティーフィフティーなんですよね。
イライラするだけ損。胎教に悪いよね。