…**…*…**…*…**…*…**今のわたしの心象風景をショートストーリーに☆…*…**…*…**…*…**…**…**…*…**…*

タイトル『For You』

ヒカルは少女っぽさだけが取り得の青い顔をした娘だった。
どこから来たのかわからない。どこに住んでいるのかわからない。
本当に女であるのかさえわからない。ヒカルはインターネットの中の娘だった。

ヒカルには四年越しの恋人がいた。
彼は二歳年上。彼は恋人というより忠実な下僕だった。
ふたりの出会いはインターネットのメールフレンド募集の掲示板。
彼は彼女の紹介写真を見た瞬間に恋に堕ちた。
その儚げな風情といい、愛くるしいクルミのような瞳といい、すべてが自分の好みにぴったりしていたから。
そして彼女の書く文章といったら!
彼の琴線にどうしても触れないではいられない、哀愁をはらんだ旋律。
この娘は普通の娘じゃない。多くのものを知っている。苦しみの中から生まれた娘だ。
そして彼女のほうも同じだった。
彼のすべては彼女の好みに切って貼ったように当てはまっていた。

ふたりはたちまち恋に落ちたけれど、ふたりは出会いであるインターネットの外に出ることはなかった。
彼は、そのことを不思議に思った。
どうして逢いたがらないんだろう?もしかしたら海外に住んでいるんじゃないのだろうか?
でも、しつこく言い寄ることをしなかった。
彼は彼女を愛していたから。
あまりに深く愛しすぎて自分の欲望などどうでもよくなっていた。
ヒカルはモニターの中でだけ存在している。
それでもよかった。彼は幸福だった。

ふたりの幸福な時も流れていき、とうとう四年目を迎えたある日、彼女は言った。
「逢いたいの。時間がないから」
すぐさま彼は返信のメールを送った。
彼女からのメールだけは携帯電話に転送されるように設定していたから、すぐに返信できたのだ。
「僕も逢いたいよ。でも時間がないってどういうこと?」
「聞かないで。詳しいことは聞かないで」
いつだって彼女に従ってきた彼だ。今さら従わない理由はなかった。

ふたりは逢った。梅田のスカイビルで。
彼女の青い顔を見て彼は胸がつぶれそうになった。彼女の心労の大きさが手に取るようだったから。
やっぱり苦労している娘だったんだ…。
空中庭園に浮かぶヒカルは、本当に空中に吸い込まれて行ってしまいそうで、
彼は涙をこぼしそうになった。
誰が彼女をこんなふうにしたんだ!?僕の大切な人を。僕の命より大切な…

その夜、ふたりは吸い込まれるように愛を確かめ合った。
それはセックスではなく神聖な行為だった。
瀕死のビーナスを救うために抱きかかえたとして、それが欲望と呼べるだろうか。
「結婚してほしい」
「駄目よ。結婚なんてできないわ。何も聞かないで」
ほどなくして彼女は妊娠した。
彼女は、アイスクリーム店で働いていたが仕事を辞める気配はない。
北風吹きすさぶクリスマス前、白樺並木で彼は心配になって言った。
「体が心配だよ。妊娠初期は危険だ。安定期に入るまで仕事を休んだほうがいいよ」
彼女は長身の彼を見上げながら、黒いつぶらな瞳で言った。
「ううん。儲けられるときに儲けておかないと。子どもが生まれたらお金がかかるから」
「僕が働いているじゃないか。なんとかなるよ」
「時間がないの…」
「時間がないってどういうこと?君はどこから来たの?以前から気になっていたけれど」
彼女からの返事はなかった。

もやもやした気持ちを抱えながらも彼は毎日の仕事に追われ、やがて春の強い日差しを感じた。
外は桜が満開だ。
なんて素晴らしい春の風景だろう。今日こそは彼女に桜を見せてあげよう。
彼にしては珍しいことだが強引に彼女を連れ出した。
彼は、部屋とバイトの往復だけしている彼女のことが心配だったから。
今このときに桜を見せてあげないと、永遠に桜を見ることができないような気がして、
なぜだかむしょうにそんな気がしてやまなかったから。

彼女は見た。春の日差しを精一杯浴びている満開の桜を。
彼女はひとり、とぼとぼと日差しのほうに歩いて行った。
「ヒカル、ヒカル、どこへ行くの?」
彼女の返事はない。
「ヒカル、どうかしたの?ヒカル!」
彼女はゆっくりと振り向いた。
その彼女の顔は、この世の者とも思えないくらいに透明だった。
「ヒカル!」

彼女は彼の胸に還ろうとして両手を広げて彼のほうに駈けて行った。
彼の胸にたどり着いたとき、かすかな言葉をもらした。
「時間がないの。母は二十八歳のときに分裂病になった。祖母もそうだった。
わたしは今年、二十八。もうすぐ。
わたしが発病したら帝王切開で、この子を…」
彼女は気を失った。
彼はしっかり抱きかかえながら、涙を流した。
彼女の頭をなでながら、心配しなくていいよ、
立派に育てていくから、この子に僕の人生をあげるから。
彼の心の声は、もう彼女には聞こえなかった。